はじめに~自由人として生きるあなたへ~

このブログは社会の常識の枠外で生きていくためのマニュアルだ。

そもそも、「働かなくてはならない」という概念は、国民から税金をむしり取ることで成り立つ国の国策に過ぎない。

人間が持つ一番の財産は「時間」だ。

お金は最低限生きていくのに必要な分だけあればいい。なぜなら、お金をもって死ねるわけではないからだ。

「生まれた意味、生きる意義、目標、夢」そんなものは、なくていい。

「後世に名を残す」必要もなければ、「社会貢献」もする必要などない。しょせん人間は動物。ただ生まれ、ただ死んでいくだけだ。

どんな偉人であれ、豪傑であれ、死に方が哀れでない人間など存在しない。老いて死ぬか、病気で死ぬか、事故で死ぬか。あらゆる人間が、自分では身ひとつ動かせなくなって哀れに死んでいくのだ。

生まれたときから、100%いつか死ぬことは決まっている。であれば、自分の時間を、人生を、少しでも楽しく生きることが自分個人にとっては一番良いに決まっている。

ところが、会社員としてフルタイムの労働などしていたら、人生のほとんどの時間を自分のためになど使えない。

組織にとって重要な人間になればなるほど、悲しいかな人は自由を奪われて組織の奴隷と化してしまうのだ。

また、国策による社会常識は、あらゆる手段を用いて消費をうながし、個人の人生を搾取していく。

しかし、よく考えてみて欲しい。自分の人生なのに、自分のために使えないなんて、実に馬鹿げていやしないだろうか。

有限である自分の人生を、人のため、社会のために費やす必要がどこにあるのか。それが尊いとされるのは、人から貢献される(人から奪う)ことで成り立つ社会、国家による洗脳に過ぎない。

ましてや幼少期よりの学校教育で、社会貢献が個人の「幸せ」であるかのように刷り込むなど、あまりにも度が過ぎている。

そこで、提唱したいのが自由人という生き方だ。

自分の時間を守れるのは自分自身だけ。縛られずに極力、搾取されるのを避ける。そのためには、ノマド、フリーター、フリーランス、自営、というライフスタイルが望ましい。

自立した自由人として自由な人生を満喫する!このブログでは、そのために必要な知識を紹介したい。

右上の目次から、上部が実践編(実生活の方法)、後半が思想編(自由人の考え方)となっている。

常識に洗脳されない

マスコミは大衆を扇動、洗脳するためにある。

そして、一般常識を作り出すのもまたマスコミ。番組自体も国策とスポンサーの意向が全てで、CMが延々流れているようなものだ。

しかし、マスコミがどのように大衆を煽ろうとしているのかが分かれば、それを逆手に取って利用することができる。

以下が良い例だ。
●国が「常識」と洗脳したい事項。()が本音。

正社員で働いてローンを組んで家を買おう!
(借金をして一生働き続けろ)

結婚しよう、子供を生もう!
(将来の奴隷獲得、養育に金を消費しろ)

経営者は事業を拡大しよう!
(税金をもっと、もっと徴収したい)

医療を受けよう!
(医療費でボロ儲け、利権よ永遠なれ)

ボランティアで社会貢献しよう!
(必要性は分かっているが税金はかけたくない)

スポーツを応援しよう!
(愛国精神養育と政治的にまずいことが起きたときの目くらまし)

保険に入ろう!
(国が行わなければならない保障も民間任せにしよう)

とまぁ、キリがないわけだが、国の洗脳のまま良い子ちゃんでいようとすると、一生自分の時間を搾取し続けられるハメになる。

つまり、個人としての人生は喰い尽くされて終わる。

ローン(借金)を組んでまで、モノを買おうとするなんて異常だ。

まぁ、時代が時代なら、労働どころか戦争で討ち死にすることすら常識と洗脳するのだから、マスコミがどれだけ悪質か。

基本的に、国は国力を潤すために、国民には朝から晩まで働いて消費し続けて欲しい、そして、羊の群れのように国策に従って欲しいのだ。

はっきり言えば、国民に金使わせようと、もしくは労働をさせようと必死だ。

しかし、国策がどうであろうと、強制的にお金を使わせたり、働かせたりすることはできない。

強制できるのは税金ぐらい。それも稼がず、消費しない人間に課税できる額には限度がある。

つまり、結局のところ選んでいるのは自分自身なのだ。

本当の貧困と富裕

自由人として自由に生きるために、まず目指したいのが経済的自由。

ムダな浪費さえしなければ、朝起きて会社に行かなくても、最低限の生活ならば貯蓄だけで生きていける、という状態だ。

そして、カン違いしないもらいたいのだが、
「最低限の生活」とは、「貧しい生活」のことではない。

例えば、食費をひとりあたり月1万円でやりくりしようと思ったら、自炊がかかせない。自炊となれば、自然と余計な添加物を摂取せずにすむ。野菜も多く取れる。100円のキャベツひと玉、大根1本買うだけで、傷む前に食べきろうと思えば野菜三昧生活となる。

自炊ができれば、好きなものを、好きな味付けと調理法で食べることが可能だ。

そして、自炊ができる人間は、「自炊する方法、買い食いする方法、外食する方法」の中から、予算に応じて好きな方法を選択できる。

つまり、自炊ができない人間より、自炊ができる人間のほうが自由だ。

もちろん、これは食費に限ったことではない。生活でも、仕事でも、生きること全般、全てがそうだ。自分でできることが多い人間ほど、「選択の自由」がある。

生きていくのは、人に依存するほどお金がかかるのだ。

先日、貧困層とその子供の特集を視聴した。メディアは、「貧困層はこんなにも苦しい思いをしている」、「努力しても抜け出せない」と伝えたかったようだ。

しかし、番組の中でその人達が買っているのはコンビニやスーパーの出来合い惣菜にカップ麺。レトルトカレー。お茶ですら、ペットボトル。一体何を努力しているというのか。

さらに、なぜかそんな人間達が都会の高い賃貸の住宅、ネカフェに住んでいる、という滑稽な姿。

生活水準というのは、上げようとすればいくらでも上げられる。

低い水準でやりくりできる人間は、いくらでも自らの選択で生活水準を上げることができる。しかし、高い水準以外を知らない人間は下げることができない。

このブログで繰り返し言っているように、収入が何十万円あろうと、支出が収入および貯蓄を上回る人間は、貧困層なのだ。

貧困層は、お金がないから貧困なのではない。

生活費を押さえる術を知らないか、したくないかのどちらかだ。

前者なら知能が足りないし、後者なら怠け者に過ぎない。

孤独死という選択

「孤独死」と聞くと、たいがいの人は可哀想な身寄りのない独居老人が寂しく死んでいる様を思い浮かべるだろう。とにかく、扱いとしては「可哀想な老人」が全面にプッシュされ、問題視される。

しかし、世の中、あたかも孤独死が不幸な人生の象徴であるかのように、煽りすぎている。だいいち、前提として人生は有限だ。この世に生れ出た以上、誰もが確実に死に向かう。

どんな偉人であれ、豪傑であれ、死に際が哀れでない人間など存在しない。老いて死ぬか、病気で死ぬか、事故で死ぬか。はたまた自殺するか。とにかくあらゆる人間が、野生の動物と同じように、自分では身ひとつ動かせなくなって哀れに、惨めに、孤独に死んでいくのだ。

では、逆に大勢の親族に看取られながら死ぬのは孤独ではないのか。私はそうは思わない。周囲に誰がいようとも、死ぬのは本人(自分)。苦しいのも本人だからだ。つまり、どうあがいても孤独に死ぬより他はない。

そして、人間関係で問題を抱えたことのある人間なら分かるだろうが、集団の中で感じる孤独と比べれば、「自分ひとり」という孤独など孤独のうちにも入らない。

死の瞬間、周囲に誰かいれば幸せなのだろうか。正直いって、死の苦しみの中で、たとえ心から愛する相手であっても、自分以外の誰かに意識が向いているとは思えない(ちなみに、私は多少重い風邪を引いただけでも、人のことになど構っていられない)。

大病に罹ったとき、私は死ぬ覚悟をしている。自分で動けない、食べられない、となったときにもそのまま死ぬ覚悟をしている。そもそも、そうなったときには衰弱して死ぬのが動物として最も正しい姿だと思うからだ。ヘタに西洋医療を受けて延命療法やら副作用の強い薬やらで、苦しんで長生きする気はないので、医療費や保険の心配はしていない。

そして、私は霊だの宗教だのといった類は一切信じていない。だから、私の死後、死体が誰にも見つからず、腐り果てて埋葬されず、供養もされず、何年何十年経とうが一向に構いやしない。

孤独死はマスコミが大好きなネタらしいが、人が老いや病気で死ぬのは当たり前のこと。事件性でもあれば別だが、自然死であれば騒ぎ立てるべきことなどないし、ましてや生きているうちに孤独死を恐れたり心配したりして人生を無駄に過ごすのは全く馬鹿らしいことだ。

また、私の死後、私の死を「孤独死」と呼ぶ人がいようが、哀れむ人がいようが、それは私にとって全く関係がない。なぜなら、そのとき私はもうこの世から消滅しているのだから。

自由人に向く人と向かない人

人間には、ひとりで生きていける人間と、ひとりでは生きていけない人間がいる。

これは、社会に生きる以上必ず人の世話に…云々のマクロな意味ではなく、ミクロな意味での「ひとり」だ。

このブログで自由に生きるために必要なものとしてよく取り挙げているのが、まず経済的自由。そして、人付き合いの自由。次いで消費しない自由だ。

これまで、全て自分の自由時間を増やすために得なければならない自由だと主張してきた。もちろん、私個人としてその信念が揺らぐことはない。

しかし、孤独感や精神的な不安感から、経済的に自由でも、人にわずらわされなくても、幸せでない人がいるらしい。

このブログの趣旨として

①低消費で経済的自由を手に入れる
②持ち家とパートナーを手に入れる
③好きなことでお金を稼ぐか不労所得を得る
④アーリーリタイア


…などという形を推奨している。

しかし、自由時間を手に入れてもやりたいことがない人、もしくは何もやらないことに幸せを感じられない人には向かないだろう。

せっかく手に入れた自由な時間が、不幸で寂しい時間となるのであれば、何のための自由なのか。本末転倒だ。

無趣味で無気力な人にとって、仕事や仕事の人付き合いがあったほうがまだ幸せだ、というケースもあるに違いない。

世の中には、組織の中で人と一緒に一喜一憂するのが好き、一般の人と同じように生きたい。自分個人の幸せよりも、社会的名誉を得たい。人に感謝されることが嬉しい。そんなタイプの人も存在する。学校でもそれがよしと教育されてきている。

奴隷には奴隷の快楽がある。

人間とは、何もしなければ思い悩むようにプログラムされている生き物だ。あり余る時間は、人間、社会、自分の負の面を見つめさせようと襲ってくる。老人になれば尚のことだろう。

そして、幸福感を感じられない人間が行きつく先は、精神病や、自殺。

人と異なる生き方というのはある意味で孤独との戦いでもある。

人生を選択する前に、自分がどちらのタイプなのか、考えてみることだ。

あちら側からこちら側に来ることはできるが、こちら側からあちら側に戻ることは難しいのだから。

自由人は第三世代のヒッピー

ラブ&ピース(愛と平和)を思想として外の社会に向かったのがヒッピーなら、我々のような生き方をする自由人は内に向かったヒッピーなのではないだろうか。

つまり、求めるのは自分自身、もしくはパートナーなどの極めて限られた人間へのラブ&ピースだ。

極論をいえば、自己のラブ&ピースのみを追求し、自分が幸せなら、外で他人が困っていようが、戦争をしていようが、関係ない。

「愛は大切、平和は素晴らしい、消費をおさえ、欲望をおさえ、持続可能な社会を望もう」、もちろんそれは正論だ。

しかし、一生かかっても、世の中を変えることは難しい。

なぜなら、誰だって、戦争よりも平和を望むほうが良いのは分かっている、自己犠牲により労働して大金を消費するよりも好きなことをして自由に暮らすほうが良いのも分かっている。

後の世の世代の事を考えれば、今のような人間の暮らしが良くないことも分かっているのだ。

それでも大衆は、これまでと同じように、皆と同じように生きなければ、不安で仕方がない。

大衆とは、経済や国策という回し車の中で、走り続けているハムスターのようなものだ。

いったん、社会の枠組みの外に出てみれば、常識とされていることがいかに歪んでいるかに気が付くだろう。

でも、回し車の中で、延々走り続けているハムスターにはそれが見えないし、分からない。

だから、他人を、社会を変えることは難しい。

しかし、自分を変えることであれば可能だ。

たとえば、消費を抑え、好きなことで稼ぎ、時間的自由、経済的自由を得る。もしくは不労所得を得て1日中好きなことをして暮らす。自分と関係のない問題は考えないし、関わらない。

好きなことを追求する、好きな人と過ごす。

社会を変えようとしなくても、それなら個人で可能なのだ。

世の中は大なり小なり、問題であふれている。首を突っ込もうと思えば、いくらでも尽きることのない問題ごとや心配ごとであふれかえることだろう。

であるならば、自由を勝ち取るためには、どこかで問題を「自分には関係のないこと」と、線引きしなければならない。

それには、ラブ&ピースの範囲を、自分、自分と価値観を共有できるパートナー、家族、仲間等、「自分にとって本当に大切な人」か、「自分のみ」に限定すればいい。

ヒッピーは思想があっても社会を思い通りに変えることができないから、酒やら葉っぱやら音楽やらで現実逃避するしかなかったかもしれないが、我々自由人は、範囲が狭くても「現実社会」を変えることができるのだ。

仕事と価値観

人に雇われていたのでは結局、時間も金も搾取されるだけだ。正社員になっても、企業側の都合で切らればそれでお終いだ。

人間関係の問題や、残業、休日出勤。自由人とは間逆の人生。「いい年こいてからの再就職活動」、なんて悲惨な目に遭うかもしれない。

だが、自分の人生を会社に依存しているからそんなことになるのだ。

私だったら、月収30万円でくだらないストレスにわずらわされるより、月収10万でいいから自分の力で稼いだお金で自由に生きたい。

反論してくる人がいるだろう。「結婚はどうするんだ?子供はどうするんだ?」。

意味がわからない。
自分自身が気ままに楽しく自由人としての人生を謳歌することに支障がでるくらいなら結婚などしなければいい。子供は作らなければいい。

もちろん、パートナーが生き方を理解してくれるなら結婚すればいいし、貯金に余裕ができたなら子作りだってすればいい。

しかし、そもそも生きていくうえで結婚自体が必然ではない。

次の質問は「病気になったらどうするんだ?」だろうか。正社員でフルタイム労働しているほうが病気になる気がするのだが。

病気にならないように食事に気を遣い、適度に運動し、ストレスをためないようにする、これ以上に病気を予防する方法を私は知らない。

そもそも、フルタイムで働いてそんな生活をすることが可能だろうか。世の中にはそれが実現できる素晴らしい会社も存在するのかもしれないが、少なくとも私は知らない。

どんなにホワイトな企業であっても、生理的に嫌な人間くらいは存在するだろう。

散々会社のために働いて自分の時間を搾取され、家に帰ったら寝るだけ。食事は外食やスーパー、コンビニ弁当。仕事や会社の人間関係。うさ晴らしの酒。それで病気にならないほうが不思議だ。

むしろ、正社員で働くなんて「病気になったらどうするんだ?」とこちらから聞きたい。

親や親族からの自由

自分自身は「自由人として生きる」と割り切っても、浮上してくるのが親や親族の問題だ。

とくに、長男や長男の嫁、一人っ子なら、介護や墓、家の行事等を取り仕切ることを強要される場合がある。

本当に親が大好きで終生面倒を見たい、介護もしたい、という人はもちろんできる限り面倒を見れば良い。

しかし、私などは個人的に毒親との関係が非常に悪いため、最低限の労力で切り抜けたい、煩わせないで欲しいと思っている。

こうした家族間の問題は、当事者でなければ理解不可能だろう。

親に情があれば別だが、ない場合には対処法も異なってくる。なので、後者の一例として、私の個人的意見と対処法を記す。

冷たいようだが、親は別世帯なので、基本的には手を出さない。親の人生は親のもので、自身の健康管理と蓄え、年金でカタをつけるべき問題だ。

まず、間違っても同居は避けることだ。一旦同居してしまうと保護責任が生じる。同居人がいれば「そいつに何もかもやらせようぜ」というのがこの国の現実だ。

親が元気なうちに独立しておかなければ(弱ってからでは)保護責任者遺棄罪となり、逃れる術はなくなる。

つまり、自分のプライベートを全て犠牲にしてつきっきりで介護なんてことにもなりかねない。

別居は自分にとって良いばかりではない。独居老人なら施設への入居が優先されるし、財産や年金でお金が足りないなら生活保護を受けることもできる。

逆に、子供側が何もする気がないのに親と同居したり、へたに関わったりすることは、親自身が持つ上記の権利を奪うことになる。

ところで、多くの場合「子は親の面倒を見なければならないと法律で決まっている」と、周囲から責め立てられるわけだが、親から子への扶養義務と、子から親への扶助義務を混同している人間が多い。

子から親への扶助義務はとても弱いのだ。

民法八七七条「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務がある」の「義務」についてだが、扶養義務は放棄できないが、そのために自分たちの生活に破綻をきたすようなら、無理をしてまで扶養義務を果たす必要はない。

強制的に人を動かして介護させることなどできないし、お金に関しても、所得のない人間からは奪えない。

ちなみに、上記の法は「民法」だ。民法は性質上、罰則規定がない。つまり、扶養義務はあるが義務を果たさなくても罰則はない。

つまり、「無理です」がまかり通るのだ。

財産を蓄えなかったのなら、蓄えなかったなりの人生。子に愛情を与えなかったのなら、与えなかったなりの人生。子供を作らない、作れなかったなら、子供のいない人生。それぞれの人生が待っている。

もちろん、その逆もしかり。原因があれば結果がある。別に、どの人生が正しいとか、間違いとかいうことはない。

繰り返すが、親の人生は親自身のもの。
自分の人生は自分のものだ。

たとえ子であっても親の人生をどうこうする権利はないし、たとえ親であっても成人した子供の人生をどうこうする権利はない。

人づきあい

通常、会社員は給料から否応なしに税金が天引きされる。

そのためか、必要以上に稼がず社会に還元しない自由人を「ずるい、許せない」と考える人がいるようだ。

大前提として、収入を調整(あえて一定額以上は稼がない)して節税するのは合法だ。

それがおかしいというのなら、会社員の妻が節税対策に「年103万の壁」を利用してパートに出るのすらおかしいだろう。

しかし、現実を見ると自分は社会の枠組みから出れもしないくせに、ひがみで人に文句をつける人間のなんと多いことか。

「本当の社会的弱者が困る」だの、「こんな人が増えたらこの国はどうなる」だのといった偽善を並べ立て、自分と同じ負担を相手に強要する。

お次は、「社会に協力しないなら社会保障を受けるな」だろうか。

文句があるなら、そういう人間が政治家にでもなって制度を変えることだ。

そもそも「いくら稼ぐか」なんて個人の自由。

身を粉にして稼いで社会のために奉仕するのもひとつの生き方だが、それを他人に強要する権利などない。まぁ、永遠に分かりあえないだろうから無視するに限る。

ちなみに、全ての税を、消費税のようにモノやサービスに課税して税金徴収をするならこのようなことは起こらない。子供にだって分かることだ。

しかし、なぜそれをしないか?実際には、世の中を動かす側の人間が利用している制度であるがゆえに、変わらないのだ。

世の中は知識を持ち、利用する人間が得をする仕組みになっている。

自分に実力があって会社勤めをしている(むしろ会社を引っ張っている)ような人は、ある意味企業の中で自由な生き方を達成しているので、他人の生き方になどいちいち文句をつけてこない。

自分および自分の生き方に自信があり、満足できているからだ。

しかし、望んでもいないのに会社勤め以外できない人(搾取されるだけ)の自由人にたいするひがみ、嫉妬はものすごい。

「お前も同じ不幸を味わえ」という境地になるらしい。
敵に回すとうざいうえに粘着質だ。

色々書いたが、その手の人間には、低所得、低支出で日々の生活に不自由がなくても、「苦しい」「お金ない」「貧乏」「不安」そう言っておけ、という話だ。
なにしろ面倒が少なくて済む。

お互い相手を「可哀想」と思って、お互い優越感に浸っていればいい。

そして、最終的にはつきあいを断てばいい。

そうした人間から得られるものは限りなく少なく、分かりあえる可能性は限りなく低い。

何度でも言うが、人生は有限。

そんな人間に費やす労力や時間があるならば、愛する人、尊敬する人、および自分自身のために使うべきだ。

海外移住について

ある程度自由人としての生活が軌道に乗ってくると、海外移住や外こもり等を考えるようになる人が多い。

つまり、海外で生活しながら日本円を稼ぎ現地で外貨に換える。もしくは、現地で外貨を稼いで生活するというスタイルだ。

自由業で、ネットさえつながっていれば場所を選ばない「ノマド」で働く人も増えてきた。住む国すら縛られないですむのだから、非常に喜ばしいことといえる。

しかし、物価の安い国は治安が悪かったり、物価の高い国は生活費が高かったりと、その選択は難しい。

現地の人間との相性もある。英語すら通じない国もある。これは、旅行などで訪れたり、または短期間暮らしてみたりしながら見極めるしかない。

どんな国であっても、住むとなれば楽しいことばかりではないからだ。

海外移住を考えたときにやっかいなのがビザや永住権の問題だ。

フィリピンやマレーシアのように現地の銀行にある程度の預金をすればいい国もあるし、オーストラリアのように特別な技術や学歴や語学力が必要な国もある。

ビザなしで、数か月ごとに入出国を繰り返したり帰国したりする方法もあるが、そうなると旅費と交通費がかさんでくる。

また、国情はいつどのように変わるかわからない。

治安の悪化、戦争、紛争など、海外で生活できなくなった場合(日本に帰らなければならない場合)のことを考える必要がある。

へたをすると年を取って日本に戻る羽目になったあげく、身内や知り合いとは縁が切れていて賃貸契約等も結べず、ホームレスに……などということになったら目も当てられない。

そのため、少なくとも現地の永住権が取得できるまでの間は、「保険」として日本にある不動産(住所)を維持しておくことだけはすすめておきたい。(実家などの住所が使える人を除く)。

もちろん、郊外の安い土地で構わない(正直、日本国の土地ならどこでもいい)。僻地にポストだけおいておくという形ですら構わないと思う。

年金、生活保護、保険、銀行証券口座、とにかくこの国は、あらゆる社会保障を受けるためにも、あらゆる契約を結ぶためにも、「住所」が必要なのだ。

近頃、ろくな収入貯蓄がないにもかかわらず、「海外で働かずに暮らしたい」という声が多く、驚いている。

資産や年金を利用したり、生活費をバイトやネット収入で稼いだりしながら、物価の安い国で暮らす。もちろん、そうした生活スタイルは昔からあった。

ひと昔前まではなら「沈没」、現在だと「外こもり」だろうか。

これらは、資産家や年金リタイア組のリッチな海外移住とは一線を画す。しかし、途上国での生活は、本当に「安い」のだろうか。よく考えてみてほしい。

物価の価格差を利用して移住する場合、タイ、マレーシア、ベトナム、インド、フィリピン、カンボジア、台湾あたりが有名所だろう。

現実には、シンガポールを台頭としてマレーシアなどのアジア圏は近年非常に発展してきており、昔と比べて物価が高くなっている。

安宿自体も減っているし、安宿の価格も数倍になっている。

たとえばだが、タイで1日200~500バーツ程度の安宿(ドミトリー)を利用しても月2万~4.5万近くかかる。

食事は屋台を利用したとしても1食50~100バーツ月1.4~3万。ビザ代(トリプル)60日×3回で9,000円。その他、交通費、雑費、なども見積もらなければならない。正直、頑張っても月7~10万はかかる、というのが実感だ。

また、外国を放浪していても国籍が日本にあるのなら、年金(収入によっては免除)、健康保険(収入によっては7割減免)は支払わなければならないし、日本の住居拠点(実家等を頼れる場合を除いて)を維持したままなら、賃貸料または固定資産税等は発生する。

加えて、途上国は、暴動、戦争、デモ、円安、様々なリスクがある。日本人は犯罪に合うリスクも高い。ならば、途上国でも治安の良い地域へ、となると、今度はお金がかかる。

治安の良い、お金のある人間の集まる地域やマンションとなると、途上国であっても生活費が月数十万~数百万というケースがめずらしくない。

最低クラスの生活費を考えても、日本で最低限の暮らしをするよりずっと高くつく。

なんせ、たとえ日本で普通に賃貸生活をしたとしても5万円あれば暮らせるのだから。

漠然と、「物価の安い海外でなら安く良い生活ができるだろう」などという軽い考えで飛び立つことのないようにしたい。

もちろん、海外の自由な風に吹かれる解放感はプライスレスだ。

しかし、海外で働かずに暮らせるのであれば、まず日本で働かずに暮らせる。

そして、いまや途上国に対してですら、昔ほど円は強くないということは、理解しておかなければならないだろう。

生活保護は不自由

近頃、生活保護が問題になっている。

少ない収入で生活費をやりくりしなくても、生活保護を受ければいいじゃないか、と思う人間もいるだろう。

しかし、そんなうまい話などない。生活保護など受けたら終わり、なのだ。

働ける人間が不正に生活保護を受給するのは、誰のためにもならない。

何より自分のためにならない。一般社会に戻れなくなるからだ。

生活保護の受給は、乞食やホームレスと紙一重となるリスクをはらんでいる。

現実問題として、生活保護を受けていて就職しようと思ったときの困難さは、クビになった会社員の比ではない。雇う側の気持ちになれば、それは当然だろう。

近親者にも調査がいくので生活保護の受給は周囲に隠しておけない。

援助どころか、「親族にそうした人間がいる」だけで、恥や迷惑を感じる人もいるはずだ。

いくら憲法で最低限度の生活が~云々いっても、現実問題、社会不適合者は、ある種の穢れとして差別されるのが世の中だ。

それでどう人間としての尊厳を保つというのか?

当たり前だが、生活保護は仕事をしたら受給できない。ただ貰うだけ。

つまり、生活保護は社会的ニートにすぎない。そもそも、突然生活保護が打ち切りにされたらどうやって生きていくというのか。

「打ち切られたら生活できない」と怯えながら暮らす生活が、自由であるわけがない。

断言するが、自分で稼ぎだすことができないのであれば自由人ではない。

親や社会から、温情で生かしてもらっているに過ぎない。

あくまでも、自分で稼ぎ、そのお金で生活するからこそ自由なのだ。

リタイア生活

人間、必ずいつか死ぬ。

必要以上に稼いだところで、預金口座にお金が入ったままあの世行きになったらもったいない。

そのお金を稼ぐために費やした労働時間分、他人のためや社会のために人生を費やしたことになるのだ。

残りの人生を生きるために必要な金額はいくらなのか?
それには、毎月、毎年最低でいくら必要なのかを考えればいい。

国民年金は全額免除だったとしても、65歳になれば半額の3万円以上もらえる。(*支給年齢の引き上げが検討されているが)もし、夫婦で長生きなら、全額免除でも月7万円近くもらえてしまう。

私の「住宅購入後の生活費モデルプラン」を元に、毎月に必要な金額を独身で35,000円、夫婦で45,000円と仮定して計算してみよう。

●独身の場合
3.5万円×12か月=年42万円必要
30歳で完全リタイアしようと思うなら1470万円必要
40歳で完全リタイアしようと思うなら1050万円必要
50歳で完全リタイアしようと思うなら630万円必要
60歳で完全リタイアしようと思うなら210万円必要

●夫婦の場合
4.5万円×12か月=年54万円必要
30歳で完全リタイアしようと思うなら1890万円必要
40歳で完全リタイアしようと思うなら1350万円必要
50歳で完全リタイアしようと思うなら675万円必要
60歳で完全リタイアしようと思うなら270万円必要

簡単な話、独身の場合、40歳で手元に1050万円あるのなら、全ての仕事をやめてリタイア生活ができる。

余剰分のお金があるのならば、人生を楽しんだり、投資したり、好きなことに使って日々を豊かな生活にしていけばいい(元本には絶対手をつけないように!)。

また、リタイア後も収入があるのならば、さらに時期が早まる。

独身でリタイア後、月々1万円の収入を得られるならば40歳で750万円あればリタイアできるし、月々2万円の収入が得られるならば450万円手元にあればリタイアできる。

私が最も愚かだと思うのは、資金が貯まってもいない状態で浪費をする人間だ。

ストレス解消だの何だの理由をつけて不相応なブランド品や流行モノを買い漁る、高級マンションに住む、やたらと飲み会やキャバクラ通いをする、ローンを組む。

そんなのは、順番が違うだろ、と疑問に思うわけだ。

年金生活より配当金生活

国民年金はすでに破綻している詐欺システムだ。

どこの馬鹿が浅知恵で作ったのか知らないが、こんなマルチ商法に(年金制度)どの道先はない。

そんなものに支払うくらいなら、代わりに月々15,000円分、自分で高配当株を積み立てるほうがいい。

いまさらかもしれないが、国民年金の仕組みはこうだ。

20歳から60歳まで国に毎月15,000円年金を支払う。すると40年で720万円支払うことになる。で、65歳から毎月65,000円程度支給される。

近年、少子化の影響で仕組みが維持できなくなり、支給開始年齢を引き上げよう、支払期間を延長しよう、という、非常にきな臭い動きになってきているというわけだ。

ここで、たとえば20歳から60歳まで同期間、同額、年配当3.5%の株式を積み立てたと仮定しよう。すると、60歳時点で配当所得が年252,000円(月21,000円)となる。

年金は支払った元本720万は国のもの。

しかし、自分で株式を積み立てた場合元本720万は自分のもの。
先が長くないとなればいつだって売却して使うことができる。

また、忘れてはいけないのが、福利の存在。

株式であれば年齢なんて全く関係なく、配当がでる。月15,000円、年配当3.5%の株を積み立て投資(税非考慮)したとして…1年目6,300円、2年目12,600円、3年目18,900円…10年目63,000円、20年目126,000円、30年目189,000円、40年目252,000円

40年間での総配当所得はなんと5,166,000円!

当たり前だが、このお金は再投資しようが生活費の足しにしようが自由。

株価の変動を考えなければ60歳の時点で12,366,000円(株7,200,000万円、配当所得5,166,000円)の資産を築いていることになる。

もちろん、株式にはリスクもある。株式なので上がることもあれば当然下がることもあるのだ。

しかし、ただ単に国に年金を支払った場合には「元本割れ」どころか「元本は丸ごと没収」ということを忘れてはいけない。

株式は元本割れや上場廃止になるパターンもある。しかし元本割れは長期で保有したり、高分配金のETFを買ったり、分散投資したりすることでリスクは軽減される(年金を積み立てるつもりで月15,000円程度の投資を続ければ、勝手に分散投資になる)。

何より、「投資」なのだから安全性や成長性をみて、この先数十年付き合っていく気のある株を探すことが大切だろう。

だいたい、長期で配当金をもらいつつ分散投資していれば、破綻でもない限り、いつかは儲かる。高配当株を上昇したときにいったん売却して、安くなったら買い直せばいい。

ちなみに、年金は全額免除でも2分の1支給される。65歳からは毎月32,500円。こちらは、どの道破綻する(している)システムだ。もらえるお金はもらっておけばいい。

国だって、生活保護を申請されるよりはましだから維持しようとしているだけ。

つまり、国にとってのセーフティーネットが年金制度なのだ(だから満額でも年金は生活保護より支給額が低い)。

想像してみるといい。自分が65歳になったとき、預貯金なしで年金収入780,000円だけの生活と、株預貯金13,720,500円の資産に加えて年の配当と年金870,717円がある生活、どちらの生活がより豊かだろうか。

年を取り働けなくなってから、貯蓄はなく年金収入しかない。

現在、世の中はそんな老人であふれている。

原付2種という得な乗り物

バイク、というだけで敬遠する人もいるかもしれないが、「原付2種」これは実に得な乗り物なので取りあげておきたい。

まず、原付には、見た目はあまり変わらなくても50cc以下の原付(原付1種)と、50㏄~125㏄(原付2種)の原付が存在する。

しかし、50㏄~125㏄(原付2種)は、
二段階右折なし(50㏄はNG)
30キロ制限なし(50㏄はNG)

と、車と同条件*で公道を走れてしまうのだ。
*ただし、ヘルメット着用、あと高速道路は走れない。

また、自分か家族が車の保険をかけているならば、125㏄までは特約で保険に入れる。

これは、強制加入の自賠責保険とは別で、任意保険の話。任意保険はあくまで任意なので、必ずしも必要ではないが、数千円からただ同然で加入できるのなら、つけておくと安心だ。

マニュアルが苦手なら、ひねるだけで走るオートマにすれば良い。小型限定の免許の取得費用は、費用は5~10万といった所だろうか。教習所によって料金が全然違うので、近くで安いところを探すと良い。

免許センターで一発試験、という方法もあるが、かなり厳しい審査をされる(受かれるならば安上がりだが)。

50㏄ならば、車の免許があれば乗れてしまうが、正直50ccは、あまりにも警察の餌食になりすぎる(田舎ならまだ大丈夫かもしれないが)。

そもそも、車道を30キロで走るなんて危険すぎるうえに、アホのような二段階右折。正直、50㏄は警察のノルマ達成のために存在するような乗り物だ。

もし50㏄に乗るなら、後ろの車の迷惑など考えず、法定速度で走行してやれば良い。法を守っているのはこちらなのだ。30キロ走行なら燃費だって良い。

警察は、「車の流れを妨げるのは悪い…」という人の良心につけこんで捕まえようとしてくる。カモられるくらいなら、警察が絶対に捕まえられない運転をしてやる。これもひとつの手だ。

税金は50㏄で年1,000円。125㏄が1,600円。
50ccと比べて125ccは、たった数百円の差で、普通車と同じ制限速度となる。

私のカブ90で、維持費は自賠責保険と税金を含め、月500円未満というところ。リッター50キロ以上。しかも、気持ち良くて、ストレスもスッキリ(個人的主観)。

まったく外出はしない、買い物は全て通販という人は必要ないだろうが、公共交通機関に月500円以上支払っている人、車の維持費より安く疲れない移動手段が欲しい人にはおすすめだ。

格安でスマホ利用

私は携帯会社が大嫌いだ。

わざとやっているとしか思えない複雑な料金形態と、強制的に組まされる機種本体の月々の割賦契約、何年縛り。あの手この手での違約金。手数料。うんざりだ。サラ金業者みたいな匂いがする。

私は携帯会社と契約をしていないが、スマホを使用している。ネット使用は使い放題(速度は遅い)で月480円、IP電話料金が315円だ。スマホ本体の代金は7000円だった(amazonで購入)。

まず、用意するのはSIMフリーの携帯(スマホ)端末。ブックオフやヤフオク、アマゾンで売っている。それを、ServersMan(使い放題月額480円)やイオンSIM(使い放題月額980円)などのSIM会社と契約し、端末にSIMカードを刺すだけ。もちろん、解約の際に違約金など発生しない。
2018追記--
2016年、全ての携帯会社でsimロックの解除が義務付けられたため、SIMフリー機を手に入れるのが容易となった。
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次に、『050plus』というアプリを入れて電話番号取得、メールはプロバイダのEメールでもフリーメールでも設定すれば受信可。ちなみに、050plus同士や提携IP電話会社との通話は無料、携帯へは1分16.8円、固定電話へは3分8.4円。

私はNTTだからそうそう潰れないだろうと考えて050plusを利用しているが、月額基本料金無料で050番号が使える(こちらからかける場合のみに料金発生)SMARTalkなどのアプリもある。

基本的に自分から電話をかけることはないので、月々の携帯料金は合計795円。某携帯会社に月々何千円も支払っていたときと比べ、不自由なことは何一つない。多少遅いがネットも使い放題、同じ会社の050相手なら電話もかけ放題だ。

加えて、相手によって必要ならLINE(ライン)でもスカイプでも取得すればいい。

Eメールなど、いくらでも無料でアドレスが取得できる。SIM+スマホに限らず、SIM、wi-fi、LANスポット+スマホ、タブレット、ノートPCでもネットにさえつなげられれば上記の方法でメールも電話もできるし、ネット閲覧も可能。

普段からIP電話やEメールを利用しておけば海外旅行に行ってもそのまま使えるという利点もある。

*追記2016
私の場合、so-netの0円sim(月500Mまで無料)を導入したので、月々の携帯料金は050plusの324円のみになった。

*追記2018
so-netの0円sim(月500Mまで無料)はそのまま、050を維持費無料のSMARTalkに変更した。つまり携帯料金は0円となった。

恋愛結婚観

恋愛にはお金がかかる。

とくに、男性は女性にごちそうしたりプレゼントしたりとお金がかかる場合が多い。結婚をすれば妻子を養うために身を削り、馬車馬のように働いて……悲劇だ。

しかし、「一緒にいる時間、自由こそがなにより貴重」と考え、価値観を共有してくれるパートナーを見つけることが大切なのではないだろうか。

「フリーターだからパートナーが見つからない」と思っている人は、逆に「お金や地位があればパートナーが見つかるのか?」よく考えてみて欲しい。

あなたという「人間」を評価せずに「お金や地位」に惹かれる相手、そんな恋愛に価値があるのだろうか。

あなたがこの先、万がいちその「お金や地位」を失ったときにそのパートナーは一緒にいてくれるのだろうか。

「そんな相手見つかりっこない」という人、ならひとりで生きればいい。

別に、パートナーがいなければ生きていけない訳じゃない。「結婚して子供を作り、子育てと一戸建てのために定年までローンを組んで働いて……」というのは、それが常識であるかのように国が洗脳しているだけだ。

なぜなら、そうしてもらわないと「国力が下がるから」に他ならない。

自由人の最も大きな武器財産は「時間」ではないだろうか。

パートナーのために使える「時間」パートナーと一緒にすごす「時間」。パートナーを常に気にかけ、共にすごし、愛を育む。そんなスローで人間らしい恋愛の形を提唱したい。

加えて、もし、パートナーができた場合には同居及び入籍をおすすめする。打算的に聞こえるかもしれないが、カップルで暮らすことで得になる面は多い。

◎諸経費が半分になる

*家賃やネットの通信料、光熱費等一人分も二人分も変わらない経費がある。
*生活費を割り勘にすれば稼がなければならない額は半額になる。

◎健康保険、国民年金免除枠増額

*所得は「世帯」で換算されるので2人世帯となると免除のための枠(稼いで良い額)が増える。

もちろん、恋人と一緒に暮らすことで金銭面だけでなく、精神的にもプラスになるに違いない。

しかし、「お金なんていらない、あなたがいれば」と言っていた女性が、ある程度恋愛熱が冷めてきたときに突然豹変することはよくあることなので、注意が必要である。

病気にならない生き方

病気になったらどうしよう、お金がなくなったらどうしよう?誰しもそうした不安を抱えている。

大金持ちでも貧乏人でも病は平等に襲いかかる。

しかし、何千万何億という治療費が必要な特別な病気にかかったら?それは通常、正社員で働いて貯蓄があっても払えない額だ。

最近は保険適用外の治療についての特約を付けた保険も売り出されてきたが、そもそも保険適用外の治療までできるのは、ひと握りの限られた人間だけなのだ。

ところで、「高額療養費制度」という制度をご存じだろうか。

簡単にいえば、保険適用内の治療なら、どんなに値の張る治療をしても低所得者の自己負担限度額は年間30万円程度。

まぁ、もちろん生活費に加えて年間30万もかかってくれば大変ではあるが。超えた分は申請すれば戻ってくる。

大病で財産を全て失くし、働けないような場合には素直に生活保護を受けるべきだろう。

昨今、なにかと風当たりの強い生活保護制度だが、そういう人のための制度だ。

ただし、生活保護を受給して生活することになった段階で、自分で生きているのではなく生かしてもらっているだけ。

また、病気で床に伏せるような生活など全く楽しいと思えないので、そうなったら最後「自由人」とはいえない。

自炊して食事に気をつけ、ストレスをためない。社会に迷惑をかけないためにも、病気の苦しみや痛みを味あわないためにも、お金がない人間こそ病気にならない生き方をするべきではないだろうか。

生活費②持家、結婚後

ひとり暮らしから、もう一歩進んで、
住宅購入後&結婚後二人分の毎月の平均的な費用を公開する
(税金や保険は月割にして算出)

光熱費(電気、水道)10,000円
カセットガス 1,000円
食費(1人10,000円) 20,000円
通信料(携帯、ネットのプロバイダ料)4,500円
住民税 0円
国民年金(全額免除)  0円
健康保険(7割減免) 2,500円
固定資産税 3,000円
地震・火災保険 3,400円
町内会費 300円   
車保険 2,800円
車検 5,000円
車税金 2,500円
車ガソリン 3,000円

以上で、合計58,000円

固定資産税の安い郊外に住居を購入し、車を持たずに最低限の生活をするなら、なんと夫婦二人であっても月4~5万円あれば暮らせてしまうのだ。

ここで、生活費モデルプラン①(賃貸アパート、ひとり暮らし)の記事を見てもらいたい。

そして、「安いアパートでのひとり暮らしと持家の二人暮らしの支出がさほど変わらない(むしろ安い)」ということに注目してほしい。

そう、生活費は2人分になってもさほど変化しないのだ。
しかしひとりあたりの稼がなければならない金額は半額になる。

車(普通車)が贅沢品といわれれば贅沢品だが、郊外なので。

軽自動車にしたり、自転車やバイクを利用したり、公共交通機関が充実していたりで何とかなる人ならばもっと安く生活できるだろう。

追記2019---
普通車は手放し、維持費がほぼ変わらない軽自動車とバイクのセットに変えた。
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都市部は公共交通機関が発達して平野なので車を所持する必要はないが土地が高く、郊外は車がないと不便ないっぽうで土地が安い。

都市部と郊外の間で、車を所持せずに暮らせてしかも安い土地が見つかれば、それがベストだろう。

持家というステイタス

不動産購入編で、「家なんて原野に掘っ立て小屋でいい」、というようなニュアンスで記事を書いた。

だが、「最小限しか働かず、最小限しか消費しない自由人生活をする」というのは、なにも北の国からの五郎のような「電気も水道もない掘っ立て小屋での自給自足生活をする」と言っているのではない。

頂戴するメールを読むと、誤解している人がいるようだ。

もちろん、そうした生き方が好きな人はより低コストで生活できるだろうから羨ましいが、少なくとも私には無理だ。

風呂は毎日入りたいし、トイレはウォシュレットが良いし、近くにスーパーや病院も欲しい。電気や下水道の設備がないのは嫌だし、地域の付き合いが濃い田舎に住むのも嫌だ。

加えて大の虫嫌いなので、自給自足も厳しいし、山奥での生活も無理だろう。そうなると、下記の条件は必須だ。

条件1 病院、図書館、買い物に便利な立地
条件2 電気、水道は必要
条件3 低価格(ローンは組まずに現金払い)

上記の条件を満たすのは都市部に近い(もしくは隣の)郊外となる。

さて、私の行った探し方だが、まずは不動産の検索サイトで、「一戸建て住宅」ではなく「土地」を探す。

具体的には、写真を見ながら、家が立っているのに「土地」として売り出されている物件を探すのだ。

つまり、築数十年経って不動産価値のない、古家、上モノ有の土地だ。何十年モノの家であろうと、百万都市や政令指定都市隣接の郊外で人が住んでいた物件であれば、高い確率で「電気、ガス、水道」の設備は保障されている。

上記の物件の価格だが、およそ数十万から数百万の予算があれば、見つかるだろう。

たとえば、400万円で古屋と土地を手に入れたとしよう。月2万円の賃貸アパートに住み続けた場合、10年で240万、20年で480万、大家にただ搾取されて終わるだけだ。自分には何も残らない。行くあてもなく追い出されたら、ただのホームレスだ。

しかし、自分で手に入れた古屋と土地は何年経ってもなくならない。それどころか、買ったときよりも価値が高くなることすらある。

はっきりいうが、世間は「持家がある」というだけで、その人を見る目が全然違う。

カードの審査も通りやすいし、結婚だってしやすい。

本当は、持家だってピンからキリまであるわけだが、バカらしいほど「持家がある」というだけで人間として信用されるようになる。

ノマドやフリーランス、自営で(○○社の○○ですのような)社会的立場の確立されていない人間にとって、持家のアドバンテージはとくにおいしいということも覚えておくべきだろう。

不動産購入:③ローンは組まない

不動産を購入するにあたって「家賃を支払う感覚で払えばいいのだから」とローンを組む人間のなんと多いことか。

浅はか過ぎる。そして危険過ぎる

私が不動産を買う際も、多くの不動産会社が「その金を頭金にしてローンの借り入れをし、高い家を買え」と言ってきた。

ちなみに、そんなことを言ってきた不動産業者は全て切った。

ローンなんて借金と一緒。ローンを返せなくなったら、家も取られるのだ。ローンを返済し終えるまでは自分の家ですらない。

「いま」ある自分の貯金で買えないものを借金してまで買うなんて、そもそもおかしな話だ。

まぁ、収入が不安定だとローンも組めないが。しかし、それはむしろ幸運だ。

金貸しの銀行が得をする仕組みになっていること、大変な金利を取られること、しかも世の中が不動産購入の際にはローンを組むのが当たり前であるかの如く洗脳していること、よく考えれば分かる。

銀行のしていることなんて闇金のしていることと、大差ないのだから。

高い家を買わせ、老人になるまで毎月の借金を返させる。

そのためにはフルタイムで働かなければならないだろう。

この奴隷制度のような仕組みに気がついたら、ローンなんて絶対安易に組んではいけない。