ラブ&ピース(愛と平和)を思想として外の社会に向かったのがヒッピーなら、我々のような生き方をする自由人は内に向かったヒッピーなのではないだろうか。
つまり、求めるのは自分自身、もしくはパートナーなどの極めて限られた人間へのラブ&ピースだ。
極論をいえば、自己のラブ&ピースのみを追求し、自分が幸せなら、外で他人が困っていようが、戦争をしていようが、関係ない。
「愛は大切、平和は素晴らしい、消費をおさえ、欲望をおさえ、持続可能な社会を望もう」、もちろんそれは正論だ。
しかし、一生かかっても、世の中を変えることは難しい。
なぜなら、誰だって、戦争よりも平和を望むほうが良いのは分かっている、自己犠牲により労働して大金を消費するよりも好きなことをして自由に暮らすほうが良いのも分かっている。
後の世の世代の事を考えれば、今のような人間の暮らしが良くないことも分かっているのだ。
それでも大衆は、これまでと同じように、皆と同じように生きなければ、不安で仕方がない。
大衆とは、経済や国策という回し車の中で、走り続けているハムスターのようなものだ。
いったん、社会の枠組みの外に出てみれば、常識とされていることがいかに歪んでいるかに気が付くだろう。
でも、回し車の中で、延々走り続けているハムスターにはそれが見えないし、分からない。
だから、他人を、社会を変えることは難しい。
しかし、自分を変えることであれば可能だ。
たとえば、消費を抑え、好きなことで稼ぎ、時間的自由、経済的自由を得る。もしくは不労所得を得て1日中好きなことをして暮らす。自分と関係のない問題は考えないし、関わらない。
好きなことを追求する、好きな人と過ごす。
社会を変えようとしなくても、それなら個人で可能なのだ。
世の中は大なり小なり、問題であふれている。首を突っ込もうと思えば、いくらでも尽きることのない問題ごとや心配ごとであふれかえることだろう。
であるならば、自由を勝ち取るためには、どこかで問題を「自分には関係のないこと」と、線引きしなければならない。
それには、ラブ&ピースの範囲を、自分、自分と価値観を共有できるパートナー、家族、仲間等、「自分にとって本当に大切な人」か、「自分のみ」に限定すればいい。
ヒッピーは思想があっても社会を思い通りに変えることができないから、酒やら葉っぱやら音楽やらで現実逃避するしかなかったかもしれないが、我々自由人は、範囲が狭くても「現実社会」を変えることができるのだ。