孤独死という選択

「孤独死」と聞くと、たいがいの人は可哀想な身寄りのない独居老人が寂しく死んでいる様を思い浮かべるだろう。とにかく、扱いとしては「可哀想な老人」が全面にプッシュされ、問題視される。

しかし、世の中、あたかも孤独死が不幸な人生の象徴であるかのように、煽りすぎている。だいいち、前提として人生は有限だ。この世に生れ出た以上、誰もが確実に死に向かう。

どんな偉人であれ、豪傑であれ、死に際が哀れでない人間など存在しない。老いて死ぬか、病気で死ぬか、事故で死ぬか。はたまた自殺するか。とにかくあらゆる人間が、野生の動物と同じように、自分では身ひとつ動かせなくなって哀れに、惨めに、孤独に死んでいくのだ。

では、逆に大勢の親族に看取られながら死ぬのは孤独ではないのか。私はそうは思わない。周囲に誰がいようとも、死ぬのは本人(自分)。苦しいのも本人だからだ。つまり、どうあがいても孤独に死ぬより他はない。

そして、人間関係で問題を抱えたことのある人間なら分かるだろうが、集団の中で感じる孤独と比べれば、「自分ひとり」という孤独など孤独のうちにも入らない。

死の瞬間、周囲に誰かいれば幸せなのだろうか。正直いって、死の苦しみの中で、たとえ心から愛する相手であっても、自分以外の誰かに意識が向いているとは思えない(ちなみに、私は多少重い風邪を引いただけでも、人のことになど構っていられない)。

大病に罹ったとき、私は死ぬ覚悟をしている。自分で動けない、食べられない、となったときにもそのまま死ぬ覚悟をしている。そもそも、そうなったときには衰弱して死ぬのが動物として最も正しい姿だと思うからだ。ヘタに西洋医療を受けて延命療法やら副作用の強い薬やらで、苦しんで長生きする気はないので、医療費や保険の心配はしていない。

そして、私は霊だの宗教だのといった類は一切信じていない。だから、私の死後、死体が誰にも見つからず、腐り果てて埋葬されず、供養もされず、何年何十年経とうが一向に構いやしない。

孤独死はマスコミが大好きなネタらしいが、人が老いや病気で死ぬのは当たり前のこと。事件性でもあれば別だが、自然死であれば騒ぎ立てるべきことなどないし、ましてや生きているうちに孤独死を恐れたり心配したりして人生を無駄に過ごすのは全く馬鹿らしいことだ。

また、私の死後、私の死を「孤独死」と呼ぶ人がいようが、哀れむ人がいようが、それは私にとって全く関係がない。なぜなら、そのとき私はもうこの世から消滅しているのだから。